何かが溢れているのに
こんなに何でもあるのに
何にもないところって、すごいな。
こんな感想は、ありきたりで、誰もが思うことなのだろう。
哲学者や経済学者、とにかくありとあらゆるひとたちが既に論じてもいるし、記してもいるだろう。
それでも、なお綴らずにはいられない。
私の好きな神社とは真反対。
だから、なぜ好きか、なぜ嫌いなのかを改めて問うことが出来る。
小さな小さな貨幣経済の全てが詰まりすぎているのだろう。
縮図のように。
これ以上は新しいことは生まれず、違う文化圏を形成することでしか、生き延びることか出来ないのかもしれない。
ひとのよくやごうのようなもの
そのありとあらゆる全て。
わたし、が薄くなる
歩いているのは、誰でも良いのだ。
30代の女性が歩いていて、ただ、必要なお金を落としてくれる存在として、あるだけで。
何で買おうとするのだろう、それを。
何で買う気にならないのだろう、それを。
心で買い物をするのが難しい。
わたしが好きと感じているものは本当にわたしが感じている好きなものなのだろうか。
何かに割り出された30代の女性が好む何かであって、本当に私の直霊が好むものを選んで選ぶことが出来ているのだろうか。
こんまりさんの言うsparkjoy。
それは、本当に私の直霊が感じるsparkjoyなのだろうか。