dawn,light

「光といふことを」人めには/みえぬものから/かがやくは/こころの底の/光なりけり

世界を満喫するために

学びや、知識があるんだろうな。
同じものを見ても触れても、どれだけ読み取れるかによって、受け取れるものの豊穣さが変わるんだろう。


このブログを誰に向けて書いてるって、いつかのどこかの自分へ宛てたボトルレターみたい。
そして、長い。


神旅について記した長めな巻き物、第4巻。
第1巻
第2巻
第3巻


色んなお話を聞いていたら、どうやら事前の行程よりもご縁を深めるような深まるような行程に変更しているそうな。
にひひ…広く浅くも狭く深いもどちらも大好物だわ〜。
そして最善であれば何でも良いという雑食な私。


東照宮の門近くに梅の木が咲いていて、これが雪に映えて、とてもきれい。
梅の木!ピンク!かわゆす!
とキュンキュンしながら写真に収める。
が、残念ながら身体が見ているよりも見劣りする写真なのよね…しょしょんぼり。

二荒山神社から東照宮へ向かう道では、境内を参拝しているときにも其処彼処で余りにも良いタイミングで雪バサバサがあると勝手に「神さま〜、ありがとう〜」とか空間を妄想しつつ楽しみながら歩く。

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そして何気ないことにほど楽しくて嬉しいことが満ちている。
「空を見上げる」
「空気を深く吸い込む」
「水の流れる音」
「まるっとした雪を被った石」
(参道脇に流れていたところにあったものは、ついついなでなでしたくなる可愛さ!)
「青々とした苔たち」
「大きな御神木たち」
「見上げる、その全て」


この雪景色ならではの東照宮にゆったり身体を浸す。
東照宮から二荒山神社へ戻る道中、受け取る〜と呪文のように唱えつつ、落ちてくる神さま方からの雪バサバサを両手で受け取りながら歩く。


そう言えば、昼食の時には山菜の天婦羅や今年初めての筍を食べることが出来て「ああ、春やねえ」と思ったのでした。


そして「叶っても叶わなくても自分が望んでいることは自ら伝えてみる」ということ。
もし叶わなかったとしても上手く行かないことさえ上手く行っていることなので結果的に帳尻が合いますのことよ、たぶんね。
そんな無茶ぶりは何だか悪いなあ…、とか勝手に頭の中をぐるぐるさせていた私には出来なかったことを、グループメンバーがひょいっと成し遂げていた。

何と言うか、もちろん匙加減は必要だけど、相手がどう答えるかの自由があると同等に、私も伝える自由があるんだ。

神さまからのねえねえな雪バサバサが落ちてきた時に、雪を払いあいっこするのって色んな人たちと旅をしているからだよね。

この旅を通して感じたことは、安心して自由に色んな楽しみ方が出来る雰囲気に満たされていたということ。
ひとりで楽しめることと誰かと分かち合って楽しめることが共存していた。
そんな自由で色んな楽しみ方が出来た自分を見つけられて嬉しかった。

そんなことを言葉にしていたら、そろそろ旅の終わりが見えてきた。