dawn,light

「光といふことを」人めには/みえぬものから/かがやくは/こころの底の/光なりけり

最高かよ!

あー!めっちゃ最高だった!
いつも、いまが最高だと身体と魂ごとプルプルして思い返せることの喜び。


いまもなお、現役で最前を走ってる(しかも、めっちゃ楽しそうに!)ライブを見れることの幸せと楽しさよ!


みんな、みんな、みんな、身体と魂があるから見れるし踊れるし歌えるし涙も出るし喜びを味わえるんだなー。


言わずもがな、ミスチル最高かよ!
そんでもって、ミスチルが最高ってことは…地球、最高かよ!


横浜線の電車の中は、ミスチル話で盛り上がる人たちもいる。
同じアーティストを好きでも、いろんな人やいろんな考え方の人がいて、それぞれの日常があって、見えてる感じてる世界が人の数だけあるんだなあ。

新横浜はライブへの通り道

あー!楽しみ!

ライブのチケットをゲットして
新しいアルバム聞いて
雑誌のインタビュー読んで
慌ててパスポート申請して
無事にパスポートを受け取って

伊勢山皇大神宮で交流を繰り広げて
直会ジェラートを食べて
冬の定番、ジンジャーシロップのティーラテ飲んで
指針を振り返りして
haruka nakamuraを聞いて
うとうとして

新横浜に行くよ!
ミスチル横浜アリーナでライブだよ!
何年振り…?
横浜アリーナでのライブなんて!

あー!楽しみ!

すべては

体験する、っていう遊びのために地球に来てる。
漫画やドラマや映画を見なくても毎日が実はリアルカイジライアーゲーム

と、知識的に知っていても
腑に落ちていても
身体や脳は騙されまくり
VRよりも良く出来ている世界なので
体感パないぜ…と

そして、皆、自分がしたいゴッコ遊びをしてる
とするならば
味わいたい感情、体験として
私は何でこれを選んでいるんだろう

ま。
ナゼナニナンデを探したくなるのも
脳が欲しているのでしょう

それよりも
私はループに感じる同じすぎる感情や体験は、もういいや。

後先の分からなさにテンションの上がる自分もいるけれど
勝手知ったるなんちゃら、の効果も知ってるからな
ライナスの毛布って、やっぱり安心する

だから、私的にはバンジージャンプライナスの毛布の割合が大切だなあと思う

ライナスの毛布に癒されたら
また

ライナスの毛布をバージョンアップさせることは必要かもしんまい…バンジージャンプを通して好きなもの落ち着くものが変わるかもだし)


その瞬間に

生きていて
身体があること
その奇蹟

今日
何気なく見始めた映画「LION」
クライマックスの頃
お風呂から上がってきた母が
何気なく
でも、とても優しく
愛が伝わる
そんな触れた方で
私の足を触った

映画のクライマックスは
産みの母に再会した場面で
そんなとき私は産みの母が
私の足を、愛とともに
そっと触れた瞬間と重なった

こんな風にして
瞬間に奇蹟が起きるのだろう

この混沌とした日々を

いま、はやく抜け出したくて仕方がない日々を。
この、何処に向かっているのか知りたい日々を。
その、突き抜けた先にある未だ見たことのない景色を。

茫洋とした日々を、泳ぐのに疲れてしまった、と。
早く新しい場所に着きたい、と。


それら全てを、私は私のために書くこと。
それら全てが、私が私のためにできることなのかもしれない。

そんなことを帰り道で急に思ったのだ。
そんなことを思ったことなかったのに。


いつか、今いる場所が懐かしくて仕方がなくなるときまでの混沌とした日々を。
ただ誰のためでもなく、誰かに向けてでもなく。

いま、どうして抜け出したくて仕方がないと私は感じているの?
この、いまいる場所を私は何処だと思っているの?
その、辿り着きたいと望む突き抜けた先にどんな景色を見たいの?

何気なく選んだ【混沌】という言葉には【1:天地創造の神話において、天と地がまだ分かれず、まじり合っている状態のこと。カオス。2:入りまじって区別がつかず、はっきりしないさま。】という意味があるようだ。
2番の意味で選んだ言葉だった。

けれど、いまこそ私の世界をいざ創らん、としている私にとって、1番の意味として使おう、この言葉を。
私にとっての天地創造の日々を。

身体で聴く音

晴天だったよ、日比谷野音
雨のパレード、ライブ日和。

とても良く晴れていて、開け放たれた窓からは一滴の湿気もないほど爽やかな風が空間を通ってゆく、お手本のような初夏を思わせる今日。

ここ何日か、私の心と頭に漬け物石のようにズッシリと重みを感じさせる出来事は、まだまだ存在感がある、けれど。

それでも、爽やかな風と共に運ばれてくる軽やかな街のさざめきは、世界の豊かさを想起させた。

パタパタと仕事を済ませて、チケットを引き取り、まだまだ明るいのに、もう夕暮れを感じながら、慌てて駅に向かう。

勘で選んだんだ路線は、日比谷までに停まる駅の数が意外な距離を感じさせた。

地下鉄の駅のホームを走り抜け、階段を駆け上がると地上に漂う熱が、更に私の体温を上げる。
少し喉の渇きを起因させる暑さと共にはやる気持ちを抱えて通る日比谷公園は鮮やかな緑と夕刻の気配に満ちていた。

初めて入った日比谷野音は開かれていて風の吹く場そのものが発光しているようなところだった。
走って汗をかいた身体に心地いいコンクリートで出来た座席の冷たさにも助けられて、始まる前に世界と私に空間を与えてくれた。

好きな音楽を奏でる人たちの新しい音源を聞くときは、いつも期待の隣に一抹の緊張を伴っている。
ワクワクしながらドキドキしながら、CDの再生ボタンを押す。
シュルルンとCDが廻り始め音が空気を振るわせる、と同時に私の心と身体に響く、その音。
その音に全てを掴まれて、それが嬉しくて何度も何度も再生ボタンを押すとき。

そんなときはライブがとても待ち遠しくて楽しみに指折り数えて過ごす。
そんな風にして今日は私の元にやってくる、はずだった。

それが予想外の漬け物石を抱えることになり、頭と心が押しつぶされながら聴いた音楽は、圧迫された空間を拡げて、吹き抜けるような風を通してくれたんだ。

そして、それを私の全てと共に身体で聴く。
そんなライブだった。

ヘッドホンを通して聴く音は、頭に響き心や思想と共に漂う。
ライブで聴く音は、身体の中で共鳴して、詰まってしまった何かに隙間を与えてくれる。
そして、空間を通して響き心に刺さるフレーズに触れ、考える間も無く涙が零れ落ちる。

帰り道に見えた山並みにかかる月と、日比谷野音のステージ上にかかる月は、同じ日の月であるはずなのに、全く違って見えた。