あたーらしーいあーさがきた(後篇)
さて前篇の続きです。
酉の市と言えば、むかし働いていたときに共に仕事をしていた長老的な人と一緒に浅草で行われていた酉の市に行ったのが初めての酉の市。
あとは、2014年のときは酉の市が行われた次の日が11月11日だったことなど、色んなことをぼんやりと思い出しながら向かったのだった。
やはり、たくさんの人たちで賑わっているものの、小雨降る中だったためかお祭りの日にしてはそんなに息苦しくなかった。
11時11分というマイルストーン的な時刻が気になりつつも、ぶらぶらと気になるところにご挨拶周りに。
ああ、そろそろかなあ、という頃に然るべき場所で自然に愛に満ちた祈りを捧げることが出来たのだ。
それは、とても嬉しい一致だった。
それにしても今日はどうしても摂社が気になって頭から離れなかった。
主だったところにご挨拶した後、お昼を食べてから主たる境内から離れたところにある摂社を周ることに。
これだけでも、小雨降る中たくさん歩いたので(全然へっちゃら、かつ歩くのって好みなんですがね、それでも)もう良いかなあ、と表層の自意識は思うのに深いところにいる自意識がもう一つ参拝しようと言うので、瀧神社を巡り、その戻る道すがらに武蔵国府八幡宮を見つけて三たび大國魂神社へ。
(…と言うか、大國魂神社の参道に最初にいらっしゃるはアメノウズメさまですわねー、あはは笑)
よく歩いたところは日吉町…笑
神さま方って、ほんと粋ですこと!
東京でも猿田彦大神さまにご挨拶に行かねばね。
今日、大國魂神社で参拝していて一番ほっこりしたのは松尾社。
ちなみにここにいらっしゃるのは大山咋神さま。
こちらの摂社には猿田彦大神さま。
はーい、参拝に行きまーす。
と、こんな感じで神さま方にご挨拶したり神社巡りが続いてゆくのであり、それは大変に幸せなのであります。
私は神社と神さま方が大好きよー!!!
と自己世界の中心で愛を叫ぶのだ!!!
あたーらしーいあーさがきた(前篇)
《新しい朝が来た、希望の朝だ。》
振り返ると久しぶりのブログ。
さて何から書き始めようかと思った途端に頭の中に流れたのが冒頭のフレーズ。
なるほど。
1111は次の流れの始まりだと各所で言われている中で、私にとっても新しい流れの始まりなんだな。
土星が獅子座の私は自己表現に対して何やらテーマがあるらしい、と言うか自分にとっては普通だったから、そんなものでは?と思っていたフシがある。
だから、勝手に自分の気持ちを他者に伝えることに対してハードルが高いのであった。
でも、どんなことを綴ろうと私の勝手で良いのだ。
別に押し付けてるわけじゃなし。
あるブログによれば、新しい始まりにあたる今日は時空を超えて、次のステージへ進むための準備が動き出す日なんだそう。
それを読んで、やっぱり神社に行きたいなあと思い昨日からずーっと考えていた。
何処に行けば良いのかなあ、と。
もちろん、好きなところ行きたいところに行くのだけれど、神社が大好きな私にとっては、気になるところが何箇所もあるうえに、ものすごーーーーーーーーく産土神社らぶ!な人なので、何にもぼーっとしてれば何はなくとも産土神社な人なのだ。
けれど考える、というのとは違う意味で、産土神社ではないところに参拝する感じが頭から離れなかった。
のでキーワードを探るようにお知らせを探っていた。
浅草の鷲神社で行われる酉の市が気になる感じがありつつも、浅草に全くピンと来ず。
住んでいるところの一宮か総社かなー、と思っても何となく違うような。
総社っぽい雰囲気はありつつも、住んでいるところの感じではない。
しかも、その時も11月11日に参拝していて同じ日付ということにも縁を感じたのだった。
しかも、ああ、なんかそこかもしれぬ…と言うぼんやりとしつつも流れを感じて参拝することに。
後篇に続く!
ただいま、地味に実践ちう。
常に私の世界の中心、創造主はわたし。
だから私の世界を心地よい世界にするのは私が心地よくあることだけ。
そのために、わたしがいまできるすぐに心地よくなるには、どうしたらいいかどうしたら私は心地がよいのかを心に、ど真ん中に常に問いかけ続ける。
昨日の心地よかったことが今日も心地よいとは限らない。
常に《いま》どう感じているか、が大切。
happyちゃんを通して知ったエイブラハムの話。
元々、旧来型のやり方はどういうことかな??ポカーンなひとだから凄く本来の自分に近い話だってこと、とてもよくわかる。
happyちゃんのことを引き寄せの流れで知ってはいたけれどブログを読んだりはしたことなかった。
でも今年に入ってから、ぽーんと手元に情報がやってきて読んでみたら、すごくわかりやすかった。
いわゆる引き寄せで言われていることには色んな段階があって、そもそもすっ飛ばしてしまっていた初めの一歩を何処に歩き出したら良いかを教えてくれてる!って言うことがわかった。
ワークショップとか一度も行ったことがないのに何故だかエイブラハムのDVDは速攻で購入した割にはすぐに見始めないっていうね。
(なんであんなに必死に買ったのにすぐに見ないなんて何故だ、私?と責めるのは違うよってことも分かったから。結果、このタイムラグは必要だったってこと。)
それでいい、それがいい、ってことも分かった。
ある日、ふとやってきたのだ。
「あ、いまから見よう」と。
そうして見るDVDや特典映像は、すごく分かりやすくて、失敗した経験すらも読解に役立つという。
私のこれまで全て、本当の全てが私という唯一無二の私の世界を作っている。
わたしが心地よくいること以上に大切なことは何もない。
まだ地味に忘れたり思い出したりしながら、実践ちう。
今日もしっかりしなきゃな自分で立てたタイムテーブルを実行していたら出会えなかったことに出会えた。
たまたま、ゆるりと過ごしていたときに見たNHKヨーロッパ鉄道の旅で流れていた関口さんの歌を聞きたかったんだなあ、ってこと。
ささやかだけどね。
でも関連コンテンツを見ると楽しくて、グリットが整う感じがした。
これが明日になったら、また変わるかもしれない。
でも、それでいい。
それがいい。
だから、わたしは常にど真ん中のわたしが感じていることを読み解き続けるんだ。
同じ景色が続くと思ってた
たまに利用している駅の改札口が移動していた。
大幅な変化よりも微妙に違う位置という、ほんの少しの違和感を感じる変化、そういう変化はずっと永遠に続くかのように感じていた私に、そんなことはないのだと静かに伝えるようだ。
ときに、声高に伝えられる言葉よりも、淡々と伝えられる言葉の方が重みがあるように。
それは、じわじわと私に何かを伝える。
そんなことをつらつらと感じていたら、スタバで大好きだったフルリーフチャイティーラテがメニューからなくなっていたのであった…。
ふと
立ち止まって感じる。
いつもの流れに乗ってしまうと、感じかけたことも流れていってしまうことがある。
今日たまに利用する駅から帰ろうとして、電車が遅延したときに、忘れていた用事を思い出したのだった。
そういうことを出来るときから少しづつ少しづつ。
シフォンを重ねるように薄くても透けていても、確実に着実に重ねていく。
淡く綺麗な色のシフォンを重ねていくことで、単色だけでは現されないような、言い切れない色なのに不思議と心惹かれる色になるように。
特効薬は求めない。続けていくことで重みも深みも増す。テレビで見たスポーツ選手が言っていた言葉。
そうだよね、私は私の世界をインスタントに作りたいわけではないんだ。
ヒーロー見参!
ふとチャンネルを変えたら、映画「ピンポン」が放送されていた。
好きな映画。
でも最近、見ていなかったなあ。
好きなことを忘れてしまうくらいに。
ほぼエンディングに向かっていく辺りから見始めたけど、やっぱり好き。
なんで好きなのか、当時はスマイルにきゅんきゅんしていたことが多くを占めてたけど。
改めて今日見てみて感じたこと。
いまピンポン放送されてる。「うん、やってみる」、表彰台の笑顔、ちびっこのヒーローを真似る姿に、心のど真ん中が、ぎゅぎゅぎゅぎゅーってなる。ああ、私、この映画すきだああ。エンディング曲も好き。高みを目指して飛ぶ前の怖さに立ち向かう、その姿は生きている以上、どんな場面でも起こること。
— ことも (@peudejoie) 2016年10月3日
そうだ。
いつも飛ぶ前は怖いんだ。
ヒーローだって怖い。
そして、ヒーローだって相棒に支えられる。
そして、飛ぶんだ。
相棒も全力だから、ヒーローも高みに飛べるんだ。
そして飛ぶ前にはお試しが入る。
そのお試しは自分にとって強い相手と集中して対峙する。
その時には恐怖で助走するのではなく、楽しさで無邪気さで助走をする。
(この辺りはボルテックスとも共通点があるなあ)
錦織選手を通してゾーンという存在を知ったけど、そういうことを雄弁に語るシーンだったんだな。
全然テイストが違うけど、今日のぶっちゃけ寺の古舘さん面白かったな!
物質の極みである仏像を通して、見えざる世界を見る
見える世界を通して目には見えないものを人は感じて繋がり生きている。
(宗教というより哲学たる所以)
優れた仏師とサクラダファミリアの外尾さんの共通点。
自我を超えてゾーンに入る。
こういう話はほんとに面白いな。
選択は終わっている
帰り道、同僚と話をしていて、自然と湧き上がる言葉。
そうだった、既に選択は終わっていたのだった。
ただ、今は飛び立つときを、潮目を、分水嶺を読んでいるのだ。
その来たるべきときは、私の直霊が教えてくれる。
直霊からの囁きを全身でキャッチできるように私を満たして日々を過ごしていくんだ。
2013年6月のあの時に、もう選択していたのだった。
ここは終の住処ではないことを。
私は旅立つことを。
ここは飛行場のよう。
誰もが飛び立つべき時に飛び立ってゆく。
もちろん、そこで働き続ける人もいるだろう。
それでも飛び立つことを選んだ。
私は考えないようにしていたけれど、それは大好きだから。
いまも大好きだから、飛び立つことを考えると淋しくなるけれど。
でも、出発のときが来たら飛び立たないと、飛行場も渋滞が起きてしまう。
もしくは「ワンダフルライフ」で見た天国に向かう前に寄るところのよう。
自分の物語を紡げなくて、紡ぐことをひとまずお休みしているのか、紡がれるべき物語が生まれ出る時を待っているのか。
でも、その物語が生まれたら、もう旅立ちの時なのだ。
飛び立つ時を、紡がれるべき物語を綴る時を、その時を待っている。
私の直霊が教えてくれる時を待っている。
だから、私は自らの直霊を信頼して歩み続ければいい。
お昼ご飯を買ったら555が手元にやってきた。
あなたにとって重大であり意義深いスピリチュアルな変化が訪れています。サナギの状態から飛び出していきましょう。あなたにふさわしい驚くべき人生を発見するチャンスです。あなたの人生の中の何かが良い方向へ変わったか、これから変わろうとしています。
なるほど。
まずは、この言葉を受け取ると決めた。
昨日、会った人が言ってくれた言葉を。
ある意味、言葉としては新しさはないかもしれない。
それでも、人の心から人の声を通して聞く言葉はだからこそ、私の心に届いたのだ。
・自分の時間は自分と自分が好きな人にだけ使う。
・照れてしまうくらい嬉しい言葉や心がぴょんぴょんしてしまうくらいの喜びに満ちた言葉は受け取るんだ、ありがとう!と言って。
・逆に受け取りたくない言葉は、受け取らないのだ。訪問セールスみたいに間に合ってます★と伝えて受け取らないんだ。不在が続くと送り手に荷物が戻るように、嫌なら私が受け取らなければ良いのだ。そしたら、それを発送した相手に言葉という荷物が送り戻されていくだけ。
私は私の世界を私の大好きなひとものことで満たしていく。